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 おつかれさまでした。

 自分が物心ついたころから、ずっといるものだと思っていたのが……。

 ご冥福をお祈りします。

   笑点の司会について、気になることがあったので、探してみると、こんな歌丸さんのインタビューがみつかった。爆笑問題の太田さんが言っていたのは、間違ってなかったんだなあ、と思った。ということで、インタビューを引用。Gooogleのキャッシュから拾ったので、きっともうすぐなくなると思ったので。

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司会引退の歌丸『笑点』50年を語る 発案者・立川談志と出演者の間には溝ができていた
芸能週刊新潮 2016年5月19日菖蒲月増大号掲載

 国民的娯楽番組の『笑点』が放送50周年を迎えた。個性豊かな出演者による大喜利での掛け合いで、半世紀にわたって日本列島に笑いを提供してきた名物番組。それを支えた1人が桂歌丸師匠(79)だ。このほど番組からの引退を発表した、“大喜利の神様”の誌上独演会。

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「あたしを世に出してくれたのは、五代目古今亭今輔師匠と四代目桂米丸師匠、そしてやっぱり『笑点』ですね。この3つが、あたしの大恩人だと思ってます」(歌丸師匠、「」以下同じ)

 日本テレビの演芸番組『笑点』(日曜午後5時30分~)の放送が始まったのは、今から50年前の1966年5月15日。当初は『金曜夜席』という名前で、隔週の金曜日の午後10時30分から放送していた。歌丸師匠は29歳で、厳しい修業中の身だったという。

「よく言われるのは、『あのメンバーだから人気が出たんじゃないか』ってこと。でも、あたしの感覚はその逆で、『これから売れそうな人を集めたから人気が出た』と思っています。それが出演者を選んだ(七代目立川)談志さんの凄さだと思うんですよ。だからあたしはこうも言います。2人の師匠と『笑点』以外の恩人は立川談志だってね」

■談志が選んだメンバー

 そもそも『笑点』は、立川談志の発案だった。関係者によれば、「寄席でやっている大喜利をテレビでやろう」という一声がきっかけで、当時は「演芸」「談志とゲストの対談」そして「大喜利」からなる3部構成だった。

「当時は、あたしも談志さんとの付き合いはほとんどありませんでした。だけど、あの方は大変マメなんです。あの頃は、寄席でも大喜利や娘都々逸、謎かけだとかをやっていましてね。お客さんから『質屋の娘』とか『魚屋の娘』という具合にお題をもらうんです。

 小噺会っていうのもありましたけど、それに出ていたあたしのことを談志さんが見に来ていたらしいんです。先代の(四代目柳亭)痴楽師匠が東宝名人会で若手を使って小噺会を開いていましたが、そういう会に出ていた若手のことを談志さんはチラチラ覗きに来ていたというわけですね」

 豪放磊落な印象とは裏腹に、談志は普段から落語界の後輩の姿を観察していたという。それにより、晴れて番組のレギュラーメンバーに選ばれたのは歌丸師匠始め、五代目三遊亭圓楽、柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)、三遊亭金遊(後の小圓遊)、そして林家こん平の5人だった。真打は初代司会者の談志と圓楽だけ。ほかは全員二ツ目だった。

「談志さんにしてみれば、これから落語界を背負って立つメンバーを選んだということなんでしょう。それぞれの所属先が落語協会とか落語芸術協会というように違っても、関係なく声を掛けて誘っていました。そういうのに囚われる狭い感覚ではなくて、単純に“面白い奴”を選んだということだと思います。あたしが言うのも何だか口幅ったいけれども、その後は大喜利メンバー全員が人気を得て落語界を支えてきた。そういうところは、まさに談志さんの炯眼(けいがん)でしたね」

 ところが、当初の思惑とは裏腹に視聴率は思うように伸びなかった。

■ブラックユーモア

「放送が始まった頃は、マスコミとか芸能関係者のような、いわゆる“玄人”にしかウケなかったんです。それはなぜか。ご存じのように、司会の談志さんは大変ブラックユーモアを好む方だったでしょ。だから、あたしたちにも出されたお題について、できるだけブラックユーモアで答えてくれと言うわけです。ところが、そんなものは一般の人には通用しないわけで……」

 談志は『笑点』に限らず、自身の高座でも際どい笑いを好んだ。例えば、“酔っ払い運転はなぜいけないか。人を轢いた時に達成感がないからだ”とか、“あなたいい身体してるね。顔も良いし綺麗だし、モデルで売れたら一日で500ドルぐらい稼げるよ。売れなかったら? 一晩で稼げるだろ”という具合。明るい笑いよりも、ちょっぴり風刺や皮肉が利いた聴衆をニヤリとさせる笑いを持ち味としていたのだ。

「談志さんは、その手の話が平気でしたけど、さすがに日曜日夕方のテレビでやっちゃあねえ……。茶の間で見ているお爺ちゃんやお婆ちゃんたちはもう、全然笑えないわけですよ。

 談志さんはそういう笑いが好きだったけど、圓楽さんもあたしも、いや、実を言うとほかの皆も好きじゃあなかった。あたしもたまには談志さんにお付き合いをしましたけど、普段はきれいに笑いが取れる答えを考えてました。

 あたしは今でもそうなんですけど、いくら時事ネタでも、悲惨な事件や事故はネタにするもんじゃないって思ってるんです」

 そのため談志と出演者たちの間には、いつしか溝が生まれていたという。結果、番組の生みの親である談志は3年6カ月後の69年11月に降板。ところがその後も司会者は定着せず、後任となった放送作家の前田武彦もわずか1年後の70年12月に交代している。

「マエタケさんには大変失礼なんですが、視聴率が一桁に沈んだこともあったんです。やっぱり、畑が違うと落語家のシャレが通じにくいんですね。そんなわけで、『てんぷくトリオ』の三波伸介さんに司会が代わりました。

 ところが、三波さんもお山の大将だから、こっちが投げた球を上手に受けてくれることもあれば、スッと流しちゃうこともあるわけです。最終的には10年以上続きましたけど、82年に突然お亡くなりになって、それで圓楽師匠が四代目の司会者になったんです」

「特別読物 『笑点』50年!『桂歌丸』誌上独演会」より

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